ガンジャの煙で満たされている



名前:リー・スクラッチ・ペリー

本名:レインフォード・ヒュー・ペリー

生誕:1936年

出身地:ジャマイカ北西部ケンダル

顔属性:アシッド系(ガンジャ系)

君の電波は何ガロン?と思わず、くるり風に聞きたくなるような強烈な電波を随時、受信/発信しているアシッド顔。来日時に電柱を通して、日本全国にグッド・ヴァイブを送った逸話の持ち主。アシッド系と分類はしているが、身体の中はいつもガンジャの煙で満たされている。彼の顔は我々の深層意識を常に刺激する。誰もが見たことのある顔なのだ。池袋や新宿の駅に、山谷や寿町の路上に、熱帯雨林の部族に、どこにでも彼はいる。存在のダブ化。




60年代はじめに、コクソン・ドットのスタジオ・ワンでレコード・プレスの仕事に就いたのをきっかけに音楽業界入りし、以降、同レーベルのオーディション運営係を経て、プロデューサー、更にはシンガーとしても活躍した。60年代中頃にスタジオ・ワンを離れてからは、ジョー・ギブスらの下を経て、68年に自身のレーベル、アップセッターを興した。メジャーデビュー前のボブ・マーリィと優れた作品を残したのもこの頃。72年にはキング・タビーと初のステレオ・ダブ作品を制作し、74年には自宅兼スタジオ、ブラック・アークを完成させるが、79年に焼失。その後、海外でのプロデュース業が増え、レゲエ以外のアーチストのリミックスを手掛けた。90年からはスイスに移住。




名前:キング・タビー

本名:オズボーン・ラドック

生誕:1941年

出身地:ジャマイカ/キングストン

顔属性:ダウナー系(弱アッパー)


単なる油ギッシュな肉体労働者系のようでもあるが、北島三郎フェラ・クティのようなカリスマ性も感じさせる
微妙な顔。若い頃の王冠を被った彼の顔は凛々しくもあったが、歳をとるにつれて、駄目親父顔に。いや、ダブを生み出し、ジャミーやサイエンティストといった名エンジニアを輩出したダブ親父の顔だ。

50年代の終わりにラジオ修理工を始め、68年に自身のサウンド・システム「キング・タビーズ・ハイファイ」の運営を開始。このサウンド・システムがダブ誕生のきっかけとなる。その後、スタジオも完成し、エンジニア、プロデューサーとして大活躍。80年代に入ってからはレーベルを設立し、多くの新人を手掛けていたが、89年に殺害された。

タビーがレゲエだけでなく、多くの音楽に影響を与えた功績は、ミックス・ダウンの最中にヴォーカルや各楽器の音を抜き差ししたり、ディレイやリヴァーブを過剰にかけたりして、遊び心溢れるセンスでダブを発明したこと。



名前:エロル・トンプソン

出身地:ジャマイカ

顔属性:アッパー系


でこの出っ張りが尋常ではない。マイク・タイソン辰吉丈一郎に通じるボクサー顔。ボディーガードとしても一流だったであろう。これは妄想だが、当時、売れっ子だったことをいいことに、ジョー・ギブスと組んで、散々悪いことをしたのだろう。現在、2人とも音楽ビジネスから手を引いているという事実から、勘繰りたくなる。本当に悪い世界に足を突っ込んでしまったのかもしれない。




70年代に入り、ランディーズ・スタジオでエンジニアとして働いていた彼をジョー・ギブスが自分のスタジオに引き抜いたことによって、彼の名が一躍有名になる。多くのエンジニア/ミキサーが、その名を馳せるとプロデューサー業をするようになるが、彼は自分名義のプロデュース作が多少あるものの、あくまでジョー・ギブスの右腕的存在を務めた。

彼のミックスしたダブの特筆すべき点は、それまでの他のダブと違い、かなり大胆な音の処理をしているところ。爆発音や水の流れる音などの効果音を新たにトラックに被せ、顔同様の激しい攻撃的なダブを生み出した。




名前:キース・ハドソン

生誕:1946年

出身地:ジャマイカ/キングストン

顔属性:インテリ系


ゲットーの歯科医でギタリスト、シンガー、プロデューサーである彼は、ダブ・マスターに珍しく知性を感じさせる、品のある顔をしている。ひょっとして高学歴なのか?それではつまらない。社会的評価と堕部的評価は反比例しているのが定説だ。堕部的には、ブラック・ジャック的なもぐりの医者であってほしい。ラスタには無料で治療するが、バビロンの人間からは多額な金を請求するような。もちろん、麻酔は強力なガンジャで。ミュージシャンで歯医者ってことは、サエキけんぞうの先輩?


あまり知名度はないが、タビー、トンプソン、そしてペリーと並んで初期のダブの四天王のひとりとされている。彼の最初のレコーディングは14歳のとき。1967年には彼自身のレーベル「Inbidmts」を設立。70年代初頭にはホレス・アンディ、アルトン・エリス、ビッグ・ユース、Uロイ、ソウル・シンジケートといった一流どころをプロデュースしている。73年には初期の代表的なダブ・アルバムのひとつ『Pick
A Dub』を制作。74年には黒人の歴史をモチーフとしたレゲエ史上初のコンセプト・アルバム『Flesh
of My Skin,Blood of My Blood』をリリース。77年にはニューヨークに渡り『Brand』を制作。84年に癌のため38歳の若さで死去。
ハドソンのダブには、例えばペリーのような効果音などは一切使われていない。緊張感のあるアブストラクトなダブ空間が展開される。 ”









ダブ顔研究