ソショウガレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ

 時代が才能を作るのか、才能が時代を作るのか。これは、永遠に解答の出ない疑問のひとつである。だが、どうやら才能の使い方にはふた通りあるようだ。時代の気分を作るために使われるものと、その気分を増幅させるものである。オンリーワンは自らの意志によって次代をつくり、ナンバーワンは時代の気分によって押し上げられる。好奇心に導かれて自己表現に達する世界とマーケティングで表現が決定される世界とがあるのである。これは音楽に限定されたことではなく、あらゆる創造行為に共通して存在している。

 この思いつきはそれ自体どうということのないものだが、10年前に読んだとあるエッセイのことを思い出させてくれたことでは意味がある。

  

 このエッセイを書いたのは沢木耕太郎井上陽水とある日のできごとを題材にしたものである。「ワカンナイ」と題されていた。



 ある夜、沢木は陽水から突然、電話を受けた。宮沢賢治の詩「雨にも負けず」は、どんなふうに書かれているかという質問だった。沢木もうろ覚えだったので、深夜営業している本屋にいって調べ、折り返し口頭で伝えたのだという。


 雨ニモ負ケズ

 風ニモ負ケズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 欲ハナク


 決シテイカラズ

 イツモシヅカニワラッテイル

 一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニイレズニ

 ヨクミキキシワカリ

 ソシテワスレズ

 野原ノ松林の蔭ノ

 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

 東ニ病気ノコドモアレバ

 行ツテ看病シテヤリ

 西ニ疲レタ母アレバ

 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

 南ニ死ニサウナ人アレバ

 行ツテコワガラナクテモイイトイヒ

 北ニケンクワやソショウガレバ


 ツマラナイカラヤメロトイヒ

 ヒデリノトキハナミダヲナガシ

 サムサノナツハオロオロアルキ

 ミンナニデクノボートヨバレ

 ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハナリタイ


 沢木が調べて伝えたこの詩をもとに、陽水は半年かけて次のような曲に仕上げた。


 雨にも風にも負けないでね

 暑さや寒さに勝ち続けてね

 一日、少しのパンとミルクだけで

 カヤブキ屋根に届く

 電波を受けながら暮らせるかい?


 南に貧しい子どもが居る

 東に病気の大人が泣く

 今すぐそこまでいって夢を与え


 未来のことならなにも

 心配するなと言えそうかい?

 

 君の言葉は誰にもワカンナイ

 君の静かな願いもワカンナイ

 君の望むカタチ決まればツマンナイ

 君の時代が今ではワカンナイ


 日照りの都会を哀れんでも

 流れる涙でうるおしても

 誰にもほめられもせず、苦にもされず

 まわりのひとからいつも

 デクノボーと呼ばれても笑えるかい?


 君の言葉は誰にもワカンナイ

 慎み深い願いもワカンナイ

 明日の答えがわかればツマンナイ

 君の時代のことまでワカンナイ


 「ワカンナイ、ワカンナイ、ワカンナイ・・・、と何度も繰り返されているうちに、いつしかそれは靄のように歌全体を覆い尽くし、曖昧で空虚な「気分」をかもし出すようになる。(中略)この「ワカンナイ」は、私小説的な空間を守ることが公認の思想となってしまった時代における、とまどいの歌といえるのかもしれない。曖昧で空虚な「気分」。それは、彼のものであり、私のものであり、同時に時代のものであるかもしれない。わかっていることはただひとつ、ワカンナイ、ということだけ・・・。それは吐息のようにも聞こえたし、また悲鳴のようにも聞こえた」と、沢木耕太郎はこのエッセイを結んでいる。


 陽水はこの作品で、宮沢賢治という希代の幻想的な言葉使い師の作品を巧妙に操って、来るべき未来をえぐってみせた。10年たって、社会全体を覆うことになる曖昧模糊として空虚な「気分」、どこにも行き場のない不活性ガスの出現を「ワカンナイ」というキーワードに託して予知したのである。定説となっている解釈に別の見方を加え、まったく別の新たなものを生み出すこと。これが「独自性」というものの本来の意味と価値だと思える。何を材料にして、自分のなかにあるもやもやしたものをかたちにすればいいのか。その解答のひとつがここにある。











やるせない時代の視点