ウラのウラをいかなければならない、ってこともあるし、

技術的にスゴイわけじゃない。写真なんてシャッター押せば誰でも写せるからね。感覚的にだけスゴイ。つまり、彼のイメージする「カッコよさ」が、もはや常人には「わからない」域にまで達しようとしていて、そこがスゴイのだ。(『わからない』っていう写真集があんだけどね)


たとえば彼のすべての写真について「わかる」と言い切る人がいたら、それは嘘だと思う。

彼は、常に「わからない」領域にいて、そして時折「ああ、わかる」、あるいは「なんとなくわかる」光線を写真の中から発して、我々「わからずにいる」大衆を自分の域にまで引っ張りあげようとする。そういうところが、身の程知らず的にスゴイわけだ。

そして、その域にみんなが達した時には、彼はまた違う場所を「カッコイイ場所」と定めて写真を撮っている。つまり、絶えず前進する。そしてその時の「カッコイイ場所」とは、ウラのウラをかいて「通常のカッコイイ場所」に戻っているかもしれないのだ。つまり、翻弄させるのだ。

「カッコイイ」という概念をぐらつかせて、故に、強烈に意識させるのだ。


でも、そんなことをやっていて生計が成り立つところが、またスゴイ。(っていうか金持ちだ)

そしてそんな彼を「カッコイイ」と言わせる社会であったことを、僕らに教えてくれることが、嬉しいではないか。

通常、本当にカッコイイものって売れないからねえ。

「カッコよさ」ってホント、断定できないんだよね。

なぜならそれは時代で変わるし、多数決で決まったり決まらなかったりするし、ウラをいったほうが正解ってこともあるいるし、いや、ウラのウラをいかなければならない、ってこともあるし、

要するに他者との相関関係がからみあってくるからね。特に不特定多数にモテたかったり金を稼ぎたかったりすると。

あんまりトンがると稼げないし(ここだけの話、特に文芸はね。どうしてもつまんなくなるしね)、

レベルを下げ過ぎると『一杯のかけそば』になっちゃうし。(もしかしたら、それが今いちばんカッコイイのかも?)

とにかくよくわからないのだよ。

「そんなことで信念がぐらついてどうすんだよ」っていう声も聞こえてきそうだけど、でも、たまにわからなくなってしまうのが人間でしょ?

だからさ、

そんな時こそ佐内正史の写真集を眺めるのだよ。











佐内正史