『プラグマティズムの思想』を読む | Theoretical Sociology

行為と知識の関係と、可謬主義の問題である。知識は行為のために探求されるという考え方は説得力があるが、思索のための思索、思索そのものが楽しく、それ自身が目的となる場合もあるし、そういう思索にも何らかの正当な地位を用意してやりたいという気持ちも少しする。しかし、行為のための知の探求というプロセスは非常にわかりやすく、一般の人にもなじみやすい。このような考え方にもとづけば、実際の行為には何の役にも立たない、個人的な好奇心の追及は無意味ということになる。無意味かどうかはともかく、本人が楽しめたとしても、社会的にはその価値を評価されなくても仕方ないという気はする。

 可謬主義とは、われわれは間違いうる、という考え方である。パースからデューイあたりまでは、真理(大文字のTruth)はどこかに存在し、それに近づきうるというニュアンスが強いのに対して、クワインがこれを否定し、ローティがそれをさらに押し進めたようである。クワインの場合、科学理論ないしは言語の総体は、そのふちで経験と接していると考えていたので、調査や実験の結果は、理論を制約する。











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