主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である

 クオリア(qualia)とは、私たちの心の中の表象を構成する要素の持つ独特の質感のことである。例えば、「赤の赤い感じ」がクオリアである。

 私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。



 視覚の芸術である美術、聴覚の芸術である音楽、言語の芸術である文学などの人文的文化は、「クオリア」と「主観性」を前提にした人間の活動である。一方、従来の自然科学においては、「クオリア」や「主観性」が何らかの本質的役割りを果たす余地は全くなかった。したがって、ここに、C.P.Snowの言う「二つの文化の対立」の根本的原因があった。


 例えば、ヴァイオリンの音を周波数分解しても、それはヴァイオリンの音のクオリアを理解する上では何の役にも立たない。同じように、色とは光の波長のことであるというのは、おおいなる誤解である。音楽における「美」を、シャノン的な情報論的観点から、あるいはダーウィン的な進化論的観点から論ずるのは全くのナンセンスである。音楽の美は、音楽を構成するクオリアに即して研究されなければならない。音楽を構成するクオリアが音という物理的刺激によってもたらされるというのは単なる偶然である。本質的なのはクオリアの方であって、音という物理的刺激の属性の方ではない。


 デジタル情報処理技術の発達は、人文的文化と自然科学的文化をつなぐ最初のきっかけとなった。しかし、ここで用いられている情報のコーディングは、情報の伝達、貯蔵においては有効であるものの、人文的文化の本質である情報の意味には全く関係を持たない。人文的文化における意味を扱うには、ニューロンの発火から「クオリア」が生まれる原理に基づく、「クオリア・コーディング」を用いなければならない。











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